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寺の門(門前町)から見た京都について

1、京都の歴史、その歩みは決して安穏では無かった。

今日残る洛中の町並みが各時代にどのように形成されてきたかを簡単に振り返ると、「平安京建設時の道路割り」「室町時代の「町」の形成」「桃山時代の豊臣秀吉の改造」「江戸時代の町屋の発達」「近代以降の折衝と破壊」などがあげられる。

京都の中心部である洛中に今も残る町並みの骨組みとなっている道路や敷地割りなどは、桃山時代までさかのぼることが出来る。もちろん、京都の都市としての歴史は延暦十三年(七九四)に桓武天皇がこの地を都として定め、平安京を造営された時代までさかのぼることができるが、町並みの表情には大きな変化がなかった。平安時代の京都の道路は広く、碁盤目状に通っていたが、町並みとよべるようなものは出来てなかったと思われる。

道の両側は貴族の館の土掘ばかりが長々とつづき、ところどころに建つ門も厳重に閉ざして警護されていたらしい。庶民の暮らしは大変貧しくて、とても自分の住居を道路に面して建てる状態ではなかったという説もあるほどだ。

町並みの姿が具体的にわかる資料としては、室町時代の末期に描かれた洛中洛外図が古いほうになる。規模は小屋のように小さいが、庶民の住む家がびっしりと並び、賑やかに往来を行き交う人々の姿がある。

鎌倉時代には、洛中に商業地域が次第に発達し始めたらしく、町という言葉も使われている。そして、南北朝時代には、内乱から自らを防衛するための小地域ごとの生活組織も出来ていたようである。しかし、京都が平安京的な都市から町の人々が中心となる都市に生まれ変わったのは、室町時代末の応仁の乱の後のことであろう。

応仁から文明にかけて十年あまりの戦が京中を焼土になるにつれて、それまで多大な力をもっていた公家、社寺、将軍などの諸勢力は力を失っていった。そして、復興の中心となっていったのは「町衆」であった。

室町時代の京都は、一方では各地方の大名達にとっての憧れの町であった。京都に模した地名をつくり、社寺を造営して、小京都としての城下町を造ろうとした。

動乱の時代が終わり、豊臣秀吉が織田信長の後を継ぐと、天正十四年(一五八六)から京都で最初の天守を持つ城・聚楽第を旧内野に造営し、家臣の屋敷町をつくった。次いで市内各所に散在する寺を移して市街地の北と東に集め、寺の内と寺町をつくった。もっとも町並みに影響を与えたのは、道路の整備であった。既存の上京下京の町を除きずべて方一町ブロックを東西に等分し、そこに南北の道を新しく通した。現在の中京辺の敷地割りで見ると、こうして出来た約百二十メートルの短冊型のブロックはさらに東西に二分して背割りされたらしい。これは当時、城下町の町割りをするのに広く行われた方法で、京都の場合は中世以来のブロック内の常用空き地や寺跡を各家の所有地に細分し、奥の深い町家が出来るきっかけになったと思われる。さらに天正十九年には御土居を造った。北は鷹峯から南は九条まで、東は鴨川から西は紙屋川までの延々と土墨で囲み、濠を外側に作ったのである。こうして京都は一つの城下町のようになった。

これだけの改造をした京都ではあったが、まもなく秀吉は聚楽第を秀次事件で取り壊し新しく伏見に城をつくる。次いで大阪城をつくり、そこが豊臣氏の本拠地となると、以後京都は政治の中心地ではなくなる。

このころの町並みの景観は東京国立博物館蔵の洛中洛外図などである程度わかる。室町時代末期とは違い、町家は中二階建てになり間口も約三間ほどに広くなる。表構えは一階に太い格子、二階には細い格子などがはまり、一軒ごとにかなり意匠が違うように描かれていて、江戸時代中期以降とはかなり様子が異なっていた。

しかし、桃山時代は今日の京都の町の骨組みができあがった時期で、平和を繁栄して町並みも急速に広がり、町方人口三十五万人、寺社公爵武家人口も加えて約四十万人の町人中心の大都市が出現することのなったのである。


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